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プロフィール |
Author:miyukinoaji
北信州の大地で育まれた美味しい食材をふんだんにつかって心を込めてお作りしています。
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大崎下島から今治へ |
旅の効用
神峯山を後にしてS氏と別れ、明石港から大崎下島に戻,る。 明石港には大崎上島から大崎下島へ運ばれるミカンを満載にした軽トラも何台か控えていた。 大崎上島の選果場が廃止されてしまい、ミカン農家は都度隣の下島へ運ばねばならないという。

中には車は船に乗せず、台車のみでミカンを運ぶ人もいる。

当初の予定よりも1本早い1630分の便に乗れたので、明るいうちに宿に帰ることができた。 わずか13分の船旅。

夕食は朝と同じく、築山さんのところで厄介になる。
ほかに客人があって、少し段取りがうまくいかなかったらしく、しきりに詫びられる。 しかし、こちらとしてもそのような過分な接遇は期待しない。 むしろ、飲食店というよりも田舎のおばあちゃん家を訪れているような感覚で、かえって好ましい。

こんな田舎があったらな、とふと思った。
翌朝は岡村島から今治行きのふぇりにーに乗ることになっていた。出航時間は6:50で、岡村港まで15分くらいかかることを考えても、6:15頃には出発しなくてはならない。 ゲストハウスの矢野氏が、早起きして私たちを見送ってくれる。
往々にしてゲストハウスは、朝が遅い。 沖縄のゲストハウスなど、8時を過ぎても真っ暗なところが少なくはない。 8時はまだ早朝で、スタッフももちろんまだ眠りの中、そんな宿が多数存在する。
そんな若者向けゲストハウスにおいては、チェックイン時に翌朝の早発ちを伝えてはいても、見送りを経験したことはない。(とは云っても、7時とかその程度のレベルだが。。。)
先日泊まった諏訪のゲストハウスにおいても、7時少し前の出発だったが、私は誰にも気づかれず、そっと出発した。
だが、此処は違った。
矢野氏はどこまでも平身低頭、親切なひとである。 仕事として割り切っている感じではなく、人柄がにじみ出ている感じでもある。
よく、サービスを語るときに「小さなサプライズ」が引き合いに出されるが、それはひとことで言い換えるならば「親切」ということに尽きる。 サービス業を営む者は、時にはこうして親切に触れることで、お客の気持ちになって物事を考えることができる。
それは決して豪華な至れり尽くせりのサービスというわけではない。 恭々しいサービスを受けるというわけでもない。
何気ない親切を体感することで、わが振る舞いに必ず反映されるものである。
宿屋たるもの、やはり旅をしなくてはならないのである。
来島海峡へ
世間がにぎわう週末とは無縁の岡村港は、まだ夜が明けやらぬ中、ひっそりとした空気に包まれていた。 今治に向かう車は、地元の車ばかりが約4台。よそ者は私たちだけだった。

柴犬卑弥呼の排泄のため岸壁で散歩させる。 いま此処で脱走されたら、まず間違いなく行方不明である。 卑弥呼に帰巣本能が備わっているとは思えず、奴はきっとこの場所で野生化するに違いない。(^^)


大下島、下大下島を経由して来島海峡をめざす。 去りがたし大崎下島、大崎上島、である。

たくさん乗った船も、これが最後である。
今治市営渡船 第二せきぜん
 総トン数800トン、航海速力11ノット(時速18.5km)
皆、島との別れを惜しむように、ずっと後方の甲板でたたずんだ。


来島海峡は、東の鳴門海峡と並んで潮の流れが速いところである。 が、この時間帯はまださほどでもなく、本船・第二せきぜんは何事もなかったかのように海峡を通過してゆく。


瀬戸内を航行する船を眺めていると、もし自分が大学時代にこの光景に遭遇したなら、瀬戸内での宿屋開業をめざしたかもしれないと、ふと思う。
ひとつの旅が、人生を変えるキッカケとなることがある。 実際、大学時代にユースホステルを初体験し、卒業前に釧路の宿で住み込みを体験したことが今の人生のすべての始まりだった。
子供のころは、ただ願望だけで
プロ野球選手になりたい ユーチューバになりたい 歌手になりたい
実現可能性に関係なく、異口同音に夢を語る。
が、大きくなるにつれて次第に現実的になる。 そして大学生ころになると、多くの青年たちは「サラリーマン」になることを前提に進路を考える。 どうせサラリーマンになるならばと、有名会社の社名、たとえば大手旅行会社や金融機関、運輸機関、食品メーカーの名前が就職人気ランキングにずらりと並ぶ。
しかし多くのランキング会社は末端の消費者、いわゆるエンドユーザ向けの会社ばかりである。
たとえば大手食品メーカーを志望会社としてその名前を挙げる大学生はゴマンと存在するが、その製品のパッケージを作る包装メーカーの名を挙げるひとはあまり存在しないし、食品添加物の会社を目指す人はさほど多くはない。
要するに若者の職選びの第一歩は、見た目の華やかさ、知名度が先行するのである。
自分の場合、最終的には貨物船の会社に入社を果たした。
周囲の仲間は、もっぱら大手都市銀行、生命保険会社、家電メーカーなど、誰もが名を知る有名会社に就職したが、自分は少し違った。
仲間内からは「中村らしいわ」などと言われたが、しかしその選択は正解だった。
海運会社は構造的に好不況を繰り返す。 慢性的な不況の中、生き続けている国の物流の根幹をなす産業なので、絶対に絶滅することはない。 将来あらゆるサービスが自動化されても海上輸送がなくなることはない。 線路がない鉄道と違って、運転が自動化されることもおそらくない。
許されるなら、少しの間、内航貨物船の船乗りになってみたいとも思う。
伝統か、慣習か、どちらかといえば家族的な会社が多く、採用人数が少ない故に新人が大切にされる傾向にもある。 海運業界における、所謂「ブラック企業」比率はとても低いのではないかとも思う。
伝統的に、海運会社は労働組合の力が強い。 中でも、「泣く子も黙る、全日本海員組合」と称される船員の労働組合の存在は絶大で、どんなに決算が悪くとも、世間並以上のボーナスが出た。 昔ほどではないが、いまもその影響力は少なくはない筈である。
陸上従業員も船員の賃金交渉にならい、恩恵を受けるように安定的な好待遇が続いた。
自分の場合は31歳で退職したが、最後の年の源泉徴収票は税込み550万円だったので、同世代の中ではかなり好待遇だったのではないかとも思う。 50を過ぎた今、当時の同期はそろそろ部長に昇格するころだが、おそらく皆年収は1200万円は下らないはずである。
今もし世の中のあらゆる仕事に就けるとしたら何をしたいかと問われれば、寝台特急の運転士か、旅客機の操縦士と答える。 ただ、私がいうところの寝台特急は、ほぼ絶滅してしまったので、仮にその能力があったとしても叶わぬ夢ではある。
が、仮に現実的な事務職の中から選べと言われたら、おそらくかつて勤めていた会社を選ぶに違いない。
それ程までにいい会社でいい業界だったのである。
恵まれた労働環境だった故に、休みも潤沢で、趣味にも打ち込めたし、旅にも頻繁に出かけることができた。 第2の人生設計へむけて熟考する時間もあった。
が、あらためて、やっぱり人生何があるかわからない、とつくづく思う。
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清風館と神峯山 |
絶景の露天風呂
ラーメンで腹を満たした後、木江地区にある温泉旅館「清風館」を目指す。 瀬戸内を一望できる露天風呂で有名な大型ホテルで、立ち寄り入浴もまた人気らしい。
週末も絡み、家族連れが多い。もちろんGOTOを使っての利用に違いない。
入浴料は700円と比較的良心的だが、うわさにたがわず露天風呂からの景色は一級品だった。 海の見える露天風呂を売りにする温泉も少なくはないが、海面からの高さが十分に確保された、多島美を堪能できる温泉は此処くらいしか見当たらない。



が、一つ残念なのは、お湯がジェットのごとく流れ注がれる音が、景色の魅力をそいでしまっていることである。 海が近いので、さざ波や船が波切る音、ポンポン船の音も聞こえるはずなのだが、そうした音がすべて湯注がれる音でかき消されてしまっている。
同じように思っている利用者はおおいはずなので、ここはこっそりアドバイス的投書をして改善をお願いしようと思う。
神峯山へ
入浴後、ホテルのロビーでS氏に落ち合う。 私は2年ぶりだが、家族はもちろん初めてである。 コーヒーを飲みながらひとしきりの雑談後、S氏も一緒に神峯山へ向かうことにした。
瀬戸内を見下ろす絶景ポイントは数多く紹介されているが、ここ神峯山は車で上がれる瀬戸内最高峰だという。 展望台が何か所かあり、それぞれで微妙に見える角度が違っている。
はじめて訪れた時は衝撃的だった。 景色をながめて背中が震えたのはこれまでの旅人生においてわずか3回しかない。
釧路湿原 グランドキャニオン ニューヨークウォール街
はじめての神峯山は、NYに続く4度目の「震える」経験だった。 暗澹たる山の連なり、水墨画のような色合いの絶景に、本当に背中がゾクゾクしたのを鮮明に覚えている。
その時の写真

あまりに感動的だったので、その二日目もお願いして、再度連れて行ってもらった。 二回目は晴れた瀬戸内を眺めることができた。

昨年は山の中腹にある「山尻集会所」までコミュニティーバスに乗り、そこから歩いて山頂にやってきた。 日没まで待機し何枚も写真を撮った。



そして三度目は小雨の中、登ってきた。

新型コロナの関係だろうか。手入れされずに伸びきった松の木が、視界の邪魔になっていたが、初めて訪れた時同様、そこのは薄墨色の瀬戸内のしまなみが広がっていた。


丁度、そこに近くの発電所で積み荷を降ろしたと思われる、川崎汽船の貨物船が通過していった。
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ミカン狩りとラーメン |
ミカン狩り
初日の大移動に比べると、二日目は比較的ゆったりした日程を組んでいた。
朝9時からはミカン狩りを楽しむ。 あらかじめ指定された集合場所へ行くと、ミカン農家さんが待ち構えていた。 果たして私たち一家は軽トラの荷台に乗せられ、ミカン山へと向かった。

私たち、まるで映画の主人公みたいだね。
とはるかが言った。
農家さんの案内でミカン山に入る。 今収穫しているのは早生種の温州ミカンで、若干酸味が感じられる種類とのこと。 12月に入れば本種の石地ミカンの収穫がはじまるらしい。


木によって味わいが微妙に異なるのもまた果物狩りの楽しみである
お土産用に10kg、買い求め持ち帰ることにした。

大崎上島へ
午後は大崎上島渡る。 かつて勤務していた海運会社ナビックスライン南柏寮の寮長だったS氏が大崎上島にお住まいなのである。 二十歳前から約30年間、ジャパンラインの外航船の賄コックとして乗船したのち47歳で陸に上がり人事畑を歩み、その後同社の独身寮の寮長に就任、1991年入社の私はその独身寮で約3年半、S氏のまかない飯を食べて育った。
退職後も年賀状でのやり取りだけは続いていて、毎年ミカンを送ってくださった。 父上がミカン農家であり、退職後、後を継ぎ御年82歳の現在も現役のミカン農家として活躍中である。
2年前、バイクで訪れた時、22年ぶりの再会を果たし、それから2年、家族を連れてお目にかかることになった。
当初はお宅のミカン農園でミカン狩りを楽しませていただく段取りになっていたのだが、新型コロナ感染拡大の折、他県ナンバーが小さな集落に長時間留め置かれるのは精神衛生上よくないと判断、前日に電話を入れ、島内の温泉旅館で落ち合うことになったのである。
大崎下島小長港発11:37のフェリーで上島明石港へ向かう。 フェリー乗り場のまえの直売所で、さきほどのミカン狩りのおっちゃんが、熱心にミカンを売りさばく姿があった。 せっかくなので立ち寄ってみた。

しまなみ海運 第五かんおん


波の立たない内湾専用船ゆえに、航海速力はわずか9ノットと実につつましい。
定刻にもなっていないのに、フェリーは出航した。ギリギリで駆け込んでくる乗客などいないということか。
クルマを載せて島から島へ。 わずか15分の船での移動は地元民にとってみれば、飯山市民が飯山線で長野へ行くのと同義に違いない。 しかし、それは信州人にとって、異文化体験そのものであり、テーマパークのアトラクション乗車と同じくらいの価値のある時間なのである。
 京都ナンバーの原付がずらりと並ぶ車両甲板。 125ccと50ccが入り混じるが、よくぞ集団で広島まで走ってきたものだと感心する。

それにしても大崎下島から上島にかけての海域をは、周囲を島が取り囲んでいる。そこはまるで湖のような様相を呈していて、にわかには海だとは信じがたいような風景でもある。
時間はやがて12時。 木島平を出発する前から、ランチはここと決めていた。

人気店とあって順番待ちを余儀なくされる。
メニューはラーメンといなりずしのみという、一風変わった構成となっている。
2年前、バイクで瀬戸内を訪れた。 しまなみ海道のある島で囚人が脱獄し全国ニュースでも頻繁に報じられていた。 囚人は、着の身着のままだったゆえに、近隣に潜伏していると判断、ただちに周囲の島々に捜査線が張られた。 尾道から向島へフェリーで渡った折、下船した向島運航の乗り場で検問中の警察官に声をかけられた。
― 木島平って、どこですか?
― 長野県です。
― 原付で遠路はるばるお疲れ様です。これからどちらへ?
― 今日はしまなみ海道で今治、そのあと、フェリーに乗って大崎上島にわたります。
― 上島ですか!私以前赴任していたことがあるのですが、そこの「徳森食堂」ってところのラーメンが絶品ですよ
― それはいい話を聞きました。ぜひ行ってみます。
他愛もない雑談に花が咲いた。 全く検問とは程遠い問答に、職務怠慢ではないかとも思われたが、瀬戸内の人の親切さに触れたひと時でもあった。
もちろん、大崎上島に渡った時、そのラーメン屋を目指したのは言うまでもない。 その時以来の3回目の訪問だった。
名簿に名前を書いて順番を待つ。
幸い、食べログでの投稿数がまだ少なく、レビューは3.2そこそこゆえに、よそ者の行列はそこまでひどくはない。
大体、食べログもあまり信用はできない。
投稿数が多ければそれに比例してスコアが上がる仕組みになっているのがよくない。
例えば、コーヒーの世界では日本屈指の絶品コーヒーを提供する山形鶴岡のコフィア。 同サイトのスコアはわずか3.2そこそこである。
だが、一応コーヒーを生業にする者に言わせれば、コフィアでコーヒーを飲むという行為は、テレビに出てくるような有名シェフの店、例えばイタリアンの落合務氏、和食の道場六三郎氏、フレンチの坂井宏行氏などの店で食事するのと同レベルのハナシなのである。
だが、コフィアはあくまで頑固おやじが切り盛りする田舎のコーヒー屋の域を脱してはいない。
今後、何かのきっかけで人気に火がついてコフィアが行列店になってしまったら、おいそれとは通えなくなってしまうのでそれだけは勘弁願いたいものだが。
そもそも店主の門脇氏も有名店の行列など迷惑千万であり、もしそんな事態に陥ったとしたら、きっと店を閉めてしまうだろう。
ハナシは逸れてしまったが、ここ徳森食堂のメニューはラーメンと、いなりずしのみである。 まるで能生のあさひ楼のごとしである。


二日連続のラーメンに、正直、ゆずかは辟易としていたに違いない。 が、あえて口にはしない。成長したものである。 ラーメンの代わりにいなりずしを4個注文、、黙ってほおばっていた。
ちなみに斜め向かいの菓子店一正堂製菓のレモンケーキ、ブランデーケーキも徳森食堂とセットで訪れる人が絶えない。 大崎上島のかくれB級グルメの代表の2店と言っていいだろう。
 菓子店の前には地元の小学生と思しき賑やかな軍団が、釣竿をたずさえ、互いをからかい、ふざけ合っているいる。
訊けば、サビキでアジを狙うらしい。
一人の少年が熱心に仕掛けの手入れをしている。
お菓子屋の前で小学生がたむろする光景など、すでに失われた昭和の光景だと思っていただけに、母ちゃんどもども小さな感動を覚える。
木島平にはまずこんな小学生の軍団は存在しない。
どこかに遊びに行くといえば、迷うことなく親が車で送り迎えするのが当たり前となっている長野県である。 瀬戸内の子供たちが羨ましいと、心底思った。
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御手洗のまち |
御手洗は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。 帆掛け船が海上運送の主流だった江戸時代、船の航行の頼りは潮流であった。 特に瀬戸内海は、四国、紀伊半島、山陽地方の陸地の配置の関係上、潮の干満による潮流の方向が一日二回、逆転することになる。 それゆえに、瀬戸内には「潮待ちの港」がいくつか存在したが、御手洗もその一つであった。
よって多くの回漕屋や商人が行き来し、富をなすものが多数現れた。 そんなかつての栄華をしのばせる街並みが、ここ御手洗にはいまなお残されている。
瀬戸内の内湾に連なる港町は非常に絵になる場所でもあり、時折CMの撮影が行われるほか、映画などの映像作品においてもロケ地として選ばれることが少なくはない。
中でも、2012年制作のアニメ映画 「ももへの手紙」 は、ここ御手洗を主たるモデルとしていて、御手洗を訪れる人にとっては必見の映画と言ってよい。


郵便局とその向かいに建つ理容店


昭和レトロな駄菓子やおもちゃを集めたこんな博物館にも入ってみた。



この時期、特に日の出の時間帯は海に朝日が照らし出され感動的な光景を映し出す。

あちこち重伝建を巡っているが、ここのまちなみは、その背後に広がる瀬戸内の多島美によって、その印象が増す。 絵にかいたような瀬戸内の田舎町、御手洗。
本当にいいところなのである。
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ゲストハウスKUSUSI & 仕出し屋築山さん |
2年前、はじめてこの場所を訪れた時、たまたまネットで見つけ1泊利用しただけだったのだが、スタッフY氏の親切な応対が私の琴線に触れ、昨年も利用、そしてついに家族を連れて今年もやってきた。
「よーそろ」という地元の町おこし系合同会社が営む宿は、元開業内科医の木造家屋を利用したゲストハウスである。
新型コロナ感染拡大を受け、需要が低迷したのをきっかけに、この秋以降部屋単位での割安販売を開始し、家族4人での2泊1室利用がかなうことになった。


基本的に素泊まり宿ではあるが、利用可能な食事処が徒歩圏内に数軒存在する。
初日の夕食はお好み焼き屋

二日目の朝食と夕食は、ゲストハウスの紹介で築山トヨさんという年配の女性が営む仕出し屋さんのテーブルで食事をいただくことができた。

ここの仕出し屋には、2年前はじめて訪れた時も厄介になったのだが、新型コロナ感染拡大を受けて、宿では店の食卓での提供は極力なくし、仕出し弁当の宅配を勧めているとのこと。
が、ゲストハウスのスタッフY氏が、特別に築山さんにお願いしてくれ、私たち家族には店の食卓での食事が叶うことになった。
特別豪華なものはなくとも、親切極まりない瀬戸内の地元の人々との触れ合いは何にも代えがたい旅の思い出となる。 通り一遍の旅館飯も悪くはないが、飾らないこんなもてなしもまた、田舎のおばあちゃん家に帰ってきたような気分にさせてくれる特別な時間となったのは言うまでもない。

訪れる場所の魅力は景色やハコによって計られるのはもちろんなのだが、そこに携わる人にこそ魅力を感じ、虜にさせるという好例が、ここ大崎下島御手洗には間違いなく存在するのである。
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とびしま街道~大崎下島御手洗 |
今宵の宿は大崎下島に予約してあった。
呉から安芸灘とびしま海道と称されるルートを経て、40km先の重伝建地区御手洗にその宿がある。
国の公募で選ばれた愛称「安芸灘とびしま海道」は、その名の通り瀬戸内に浮かぶ島々があたかも庭園を渡る飛石(とびいし)の様に似ていることから名付けられたらしい。 呉市の安芸灘から「下蒲刈島」「上蒲刈島」「豊島」「大崎下島」「平羅(へら)島」「中ノ島」「岡村島」の7つの島を7つの橋で繋いだ道路として構成される。
最後にかけられた豊島大橋が2008年ということもあり、しまなみ海道に比べると、まだ訪れる人も少なく、穴場といえる。

【あしどり】 警固屋 15:00 発 御手洗 16:20 着
16時を過ぎても夕方の斜光線は依然眩しい。 西日本ゆえに、木島平よりも日没は遅く、17時過ぎまで十分に明るいのだ。


4つの橋を経て、大崎下島へ到達。

宿にチェックインする前に、まずは御手洗地区の街並みを見下ろす歴史の見える丘公園を目指した。 海抜高度こそ低いものの、そこは瀬戸内の「多島美」を実感できる、心和む丘。 今年もまたやって来た。

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音戸の瀬戸にて |
音戸の瀬戸の渡し船
尾道を後にして高速道路に乗る。導かれた先は山陽新幹線新尾道駅近くにある山陽自動車道のICだった。
【あしどり】
途中、小谷SAで給油、650km走行した平均燃費は10.4km/Lの結果となる。 ちなみにこのSA,いまから20年以上前、福岡の西鉄バスジャック事件において、少年の犯人がこのSAで立てこもったことでも有名になった場所でもある。
呉の目的地は音戸の瀬戸である。 山国に住む人間にとって、人の暮らしが息づく海の風景は格別なものを感じる。 特に海峡や、運河、狭い水路などの生活臭のする場所はまた格別だ。
音戸の瀬戸は、平安時代末期、平清盛によって開削されたとされ、1951年(昭和26年)~1957年(昭和32年)に拡幅された。 海峡の長さは約1km、幅は最も狭いところで約90mで、広島湾から安芸灘へ抜ける最短コースであるため、船舶交通量は1日約500隻にも及ぶ。
“音戸の渡し”は、倉橋島の音戸側から呉市の警固屋側を約3分で結ぶ日本一短い定期航路とされ、その歴史は約300年におよび、音戸大橋が架かるまでは市民の大切な足として、多い時には1日約5000人と約1000台の軽車両が渡し船に乗って行き来し、渡しの回数は約250回にも達したという。

橋が開通した後も、徒歩や自転車を中心として利用者は多く、おそらくこの先もこの渡し船は住民の生活インフラとして長く続くことであろう。
そんな日本一短い航路には過去2回、合計5回は乗っている。 今回、私は送迎役となり、まずは本土側の警固屋で3人を降ろし、音戸大橋を渡り倉橋島側へ渡った。
本土側の船着き場

時が止まったような待合小屋

音戸の瀬戸公園から警固屋乗り場を見下ろす

「乗船するひとは、桟橋の上に立って待て」とのことだが、対岸の船はなかなかこちらへ向かってくることがない。 船頭がヒルネ中なのやもしれず、心配するが3人はただひたすら桟橋で立ちすくんでいる。
しばらく公園で様子をうかがっていたが、5分が経過したころ、果たして対岸の船がゆっくりと動き出した。

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尾道観光 |
尾道彷徨
しまなみ海道を渡り終えた先には尾道がある。 まずは車で丘に上がり、千光寺駐車場に車を止める。 卑弥呼を連れて、定番の展望所、そして千光寺へと下った。
尾道は、寺のまちであり坂のまち、そして映画のまちでもある。 坂道や路地を散策して、疲れたら雰囲気の良いカフェでひと休み。昔観た懐かしい映画のロケ地を周るのが観光の定番である。



小柄な黒柴犬はやはり目立つらしく、行く先々で
可愛い~!
などと声がかかる。 が、見た目にたがわず人懐こくはなく、頭が悪い。(^^) もしここで脱走されたらまず間違いなく私たちの元に帰ってくることはないだろう。
名前を呼んでも反応しないし、おいで!と呼んでも寄ってくることはない。
柴犬関連の書籍には柴犬の性格を「飼い主に媚びない」「ツンデレ」などと書かれているが、言い換えるなら、より野生に近く、人に懐かないということを意味する。 その実態は、洋犬と比較するならば、どちらかといえば猫に近いともいえる。
柴犬=人懐こく愛らしい
という公式は、あくまで見た目のハナシであり、メディアの間違った印象操作といえなくもない。 アライグマを愛玩動物として認知させたアニメの罪は重いのである。
とはいえ、卑弥呼は可愛い愛犬であることには変わりはないのだが。
千光寺を通り過ぎたところにある「みはらし亭」でティータイムとする。 もちろん犬は店内には入れないので、外のベンチでいただく。

店内のカウンターから眺める尾道水道の風景もまた秀逸で、志賀直哉がこの地で、長編小説「暗夜行路」の執筆活動に没頭したというのもなるほど納得がいくというものである。

エスプレッソマシンで淹れた濃いコーヒーがうまかった。
そこから私は単身車に戻り、あとの3人はそのまま坂を下った。 尾道観光はやはり狭い路地を通って下のアーケード街も楽しみたい。私は車を運転し、ふもとの商店街で待ち構える。
約20分後、再び合流しラーメンの昼食を楽しむことにする。
しかし、週末とあってめぼしいラーメン屋はどこも行列が長い。 ようやく見つけた駐車場に車を停め、行列の短そうな店を探すが、歩き始めて5分後、果たして小さなラーメン屋を発見し着席することができた。
その名を3坪商店と云った。

XX商店
なるネーミングは、ラーメン屋に限らずゲストハウスやカフェにまでも使われる最近流行の屋号でもあり、おそらく開店してからの年月は長くなさそうである。

名前の通り、店内はカウンター5席のみの極小店舗であり、20台半ばと思しき若者が一人店番をしていた。
肝心のラーメンは尾道ラーメンには珍しいストレート細麺である。

しかもかなり塩気の強いスープである。 塩気が強いとは言っても富山ブラックとはまた異なる。
細麺に味がよく乗るように考えられた味付けと思われ、くだんの若者に尋ねてみると、姉妹店の本店が九州ラーメンらしく、その流れで細麺を採用しているとのことであった。
食後は本通りアーケード街のそぞろ歩きを楽しむ。



途中でふと立ち寄ったレモンスイーツの店は本当にレモンケーキ専門店の様相である。しかも相当営業歴の長い商店と思われる。 まるで小布施の栗菓子店がレモン菓子店に化けたような感じにも見える。
特産を生かしたスイーツで身を立てるならば、逆に此位のこだわりがなくてはならないということなのか。
 広島銘菓のもみじ饅頭が、陳列台の隅に脇役のごとく置かれていた。
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大島から生口島、因島、向島 |
島を転々と
亀老山を後にして、島の北東側をたどる。 Googleマップでは案内された道だったが、そこは藪が生い茂る、軽トラ道だった。 県道とは名ばかりで、農作業者さえほとんど通らないのではと思われる、狭小道で、まるで沖縄の八重山群島の限界集楽に続くかのような雰囲気さえ漂う。 対向車がやってきたら、すれ違いなどまず不可能である。
そんな道を15分ほど走り、島の中心部宮窪にさしかかる。
対岸の鵜島との間に狭い瀬戸があり、潮がある程度満ちていれば、海面が川のように流れるさまがみられるのだが、あいにくこの時間帯は最干潮で、その様子をうかがい知ることができない。

山で育った子供たちにその様子をぜひ見せてやろうと立ち寄ったが、残念ながら果たすことができなかった。
そもそも、父母が車の外に出て景色を眺めていても、子供たちは「大した場所でない」と判断すると、ただただ眠りこけているばかりである。 「連れてこられる旅」では、どうしても仕方のないことなのだが、なかなかうまくいかないものである。
大島のICで再び西瀬戸道へ合流する。 大三島の道の駅は沿線最大の規模だが、まだ朝早く営業していない。 子供たちをある程度満足させるには、物産や食べ物、売店などで引き付ける必要がある。 代わりに多々羅大橋を渡った先の瀬戸田PAに立ち寄った。

ゆずかが、さっそく鬼滅の刃ご当地キーホルダーを買い求めていた。


因島にて
つぎに向かったのは因島だった。 小説家・三浦しをんの作品では、たびたびこの島が舞台となる。
日立造船で大いに栄えた「因島市」だが、ご多分に漏れず斜陽化し尾道市と合併、今に至る。 とはいえ、現役の大型ドックはまだまだ稼働中で、住民も多い。大型店や家電製品店も立ち並ぶ、なかなかの都会といえる。
そんな島の北、因島大橋のたもとに「因島レストハウス」に向かった。 因島名物として近年とみに有名になった「はっさく大福」がお目当てである。
まだ10時にならないというのに、先客が多数おり、皆、因島大橋を見上げる窓際のカウンター席で餅をほおばっている。 私たちも負けじとほおばった。
いくつかの種類が売られていたが、なるほど、一番の名物である「はっさく大福」が一番うまかった。

いくつか商業施設を巡って感じることだが、瀬戸内のこの一帯は、名産であるかんきつを加工したお菓子が名物として君臨しているということである。 その手法は信州のそれと全く同じだが、売り方のせいなのか何なのかは計り知れないが、どうも信州はあか抜けない。
小さな瀬戸田PAの土産物コーナーでさえ、その品ぞろえには圧倒された。 いっぽう、信州はどこに行っても小布施の栗菓子である。
言い方を換えるならば、自信をもって売れる菓子をどうしても小布施の栗菓子に頼ってしまいがちということであり、決して喜ばしいことではない。
尾道水道をゆく
因島まで来るといよいよ本土は近い。 陸地や島で挟まれた、海域の狭い場所を 「海峡」「水道」「瀬戸」と呼ぶ。 瀬戸内海でも場所によってさまざまな呼び方がなされるが、ここ尾道では「尾道水道」と呼んでいる。
尾道へは、3本ある渡船のうち、福本渡船を選択。車とヒトを載せてわずか300円足らずという運賃設定はまさに隔世の感がある。

客室を持たない、鉄の枠組みだけで構成された両頭の「台船」がただひたすら健気に海峡を往復するその光景は、尾道の風物として、ぜひ見ておくべき遺産風景ともいえる。 そんな父の意図が果たして子供たちに伝わっただろうか。


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